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2025/10/11 17:54

彼女の手には、客室の壁に飾ってある一枚の肖像画。
「あの、この絵なんですけど、よく見るとベートーヴェンって書いてあるみたいなんですよ」
今シーズンの最初からずっと壁の高いところにかけてあった絵なのですが、誰の目にも留まらなかったであろう一枚の絵。モノクロの銅版画で、シミがあって、そもそも小さな絵なのでよく見えない。
「んー、ベートーヴェン? ちょっと待ってね。ルーペ持ってくるから」
私はその時まで、恋文への返信を読んで、机に突っ伏して悲嘆に暮れる一人の男の絵だと思っていたものだから、不意をつかれてしまった。
ところが、ルーペで見ると、たしかに、ベートーヴェンと書いてあるじゃないですか。
年代や画家の名前が書いてあるので調べるのにさほど時間はかからず、この作品が19世紀に大変人気のあったこの作曲家の創作場面を描いた銅版画(エングレーヴィング/メゾチント)だということがわかりました。
机と思っていたのはチェンバロで、恋文と思ったのは楽譜だったのです。
そして悲嘆に暮れているのではなく、創作に苦悩し、集中している姿でした。背景にぼんやり描かれているのは、音楽の霊感たち。
「そのうえ、この左下に、チェロが描かれているみたいなんです」
本当だ。
なんてこと。
じつは彼女Sさんは、チェリストなのです。
ベートーヴェンこそが、チェロソナタを真の「独立した室内楽ジャンル」まで高めた最初の作曲家。
そして、この銅版画は1807年頃の作曲家の創作の姿だと解釈されているのですが、それは、かの有名な交響曲第6番《田園》をウィーン郊外のハイリゲンシュタットで作曲していた時期。
それと同時に、チェロソナタ第3番、チェロとピアノを対等に扱った、明るく伸びやかな二重奏の名作を作曲していた時期とも重なります。
そう思ってこの絵を見ると、チェロが置かれている理由がわかります。
鳥肌が立ちました。
なぜなら、その前日の夜、食事をしながら、Sさんの父上(チェリスト)から、ベートーヴェンが《田園》を制作したハイリゲンシュタットの家を訪れた時の話を聞いていたからです。
部屋の窓から見たのどかな風景、《田園》の冒頭を思い起こさせるような、飛び跳ねるウサギの姿の話などを聞いていたのです。
まるでそのあと、夜のうちにベートーヴェンの魂がわが家に舞い降り、Sさんのところにやってきたんじゃないか、そんな気すらしました。
私にはいわゆる霊感はないけれど、インスピレーションやテレパシーなどを感知することは昔からあります。
今回、わが家で起きたこの出来事もただの偶然とは思えず、きっと彼女はベートーヴェンのチェロソナタの名手になるのではないかしら、そんなことを密かに思っています。
この額絵は私が持っているべきものじゃなく、彼女の隣にあるべきものとお譲りしました。
ヨーロッパにいてアンティークを扱っていると、こんな不思議で楽しい世界に出会えます。
どれもこれも、ただの「物」とは思えません。そういえば、日本でも、長い年月を経て使われた道具に宿るとされる精霊「九十九神」がいますよね。そういう感覚って、とても好きです。
当店で扱っているものも古いものが多いので、きっとフランスの九十九神さまたちが皆さまのところに一緒にくっついていって、いろんな人助けをしてくれるんじゃないかな、そんな気がするのです。